皆様、こんにちは。シリアからのヨーロッパへの難民の方々の報道が続いています。シリアはメソポタミア文明の地の一つであり、諸説あるようですがBC8000年頃すでに農業を行い、その後、土器もをつくっていたとされる、とても歴史の古い地域です。
とても難しいですね、難民問題は。人道的な観点と、実際に隣人として容貌が異なる人々が住み始めた場合の本音の意識の間には、相当なずれがあるのではないかと思うからです。
1.内戦の時代
随分以前に読んだ文化人類学者 梅棹忠夫さんの著書の中で、「国家が争う時代から21世紀は地域紛争の時代になるだろう」との予測があったのを覚えています。
テロリズムの活動が本格化する前、米国の一人勝ちで「パックス・アメリカーナ」とも言われた比較的安定していた頃に読んだため、「そうなのかな?」と驚き記憶に残っています。
こういう一流の識者の歴史的予測というものは、時々驚くことが書いてありますが、後に当たるのが恐ろしいところ。
20代の頃に読んだピーター・ドラッカー氏の「新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか」の中には、はっきりと「ソ連邦は崩壊する」と予言してありました。もちろん、当時、ソ連邦は実在していました。
当時、私は20代前半、勤務先から派遣されていた英語教室に連日缶詰で通うため、東京の女子社員寮に3ヶ月泊り込んでおり、日曜日、爽やかな日だったので屋上にあがり、英語教材で使われたその本の邦訳を読んでいたのです。
そして、そのおよそ1年後、派遣先だったロンドンにて、「詳しいことは何もわかっていませんが、ソビエト連邦が崩壊しました」というBBCニュースを見て、凍りつきました。予言の通りだと。
「コラプス」という言葉はこういうふうに使われるのだと実感したのを覚えています。そして次に襲ったのは「何が起こるのだろう」という恐怖でした。
イギリスは海をはさんでいますが、地続きのヨーロッパ各国の人々は、常にこういう恐怖の中で生きてきたのかと思ったことを覚えています。そういった環境では、情報収集・情報分析の重みが、周りを海に囲まれた日本とは確かに異なるでしょう。
2.私がこれまでの人生でお会いしたただ2人の難民の方
私がリアルに会って話をしたことがある難民、というより元難民だった方は、カンボジアで出会ったお二人の経営者のみです。このお二人はご兄弟で、カンボジアで建設会社を経営されています。
日本で受け入れられた難民であり、日本でお育ちになり教育を受けられ働いた経験がおありになっため、最初にお会いした時にはよく日に焼けた日本人駐在員の方と勘違いしました。名刺交換をして、ようやくカンボジアの方だと気がつきました。振る舞いや服装というものは、国籍よりも育ってきた文化が出るものですね。
国が内戦で混乱している状態というのは、私達には想像もつきませんが、実際にそうであった国の一つがカンボジアです。
その方たちは、内戦当時、お兄さんが6歳、弟さんが5歳で、自分達の住んでいた村から逃げ出すことをご両親が決意。9人兄弟とご両親が目立たないように数人ずつのチームに分かれて、村々をつたい目的地ごとに伝言を残しながら、難民キャンプを目指されたそうです。
3.夜の森を抜け、何でも食べて生き抜く
それだけの小さなお子さんを含めて、難民キャンプを目指し、夜の森を走って逃げられたとのこと。なぜ夜の森か?昼間はどこで兵士達、それも敵なのか味方なのかもわからない兵士が見ているか、そしていつ狙撃してくるかわからないからです。
私達はお話を聞く中で、大変失礼ながら「何を食べて生き延びられたのか」と不思議に思いそう尋ねました。すると、「草でも、蛇でも、ねずみでも、虫でも、あるものは何でもです」とのお答え・・。何とか想像はできます、しかし想像を絶する世界です。
4.難民キャンプから日本へ
そして難民キャンプに命からがらでたどり着き、奇跡的に家族全員が揃われたのです。その時には皆様、生き延びてはいたものの、がりがりにやせ細っておられたそう。
分散して逃げたというお話、伝言を残していくやり方をお伺いし、おそらく非常に頭のいいご両親と年長のお兄さん、お姉さん達がおられた賢い一族なのだろうと感服いたしました。家族の全員が生き延びたというのは極めて稀有な例で、彼らはそれをとても誇りに思っておられました。
そして難民キャンプでたまたま、日本からのNGOの方と出会い、とにかくこの家族を日本に送らないとこのままで命が危険だとなり、日本で受け入れられた数少ないカンボジア難民となられたのです。(この時も「たまたま」という魔法のキーワードが出ました)
これでハッピー・エンドのお話になれば、私も誇らしく思うでしょう。いえ、命を落とした方々に比べればとても幸運な一族には違いありません。日本もそこに貢献したのです。
日本に来られて、言葉も分からない中、お父さんは必死で働いて子ども達を育てられます。もう本当にいろいろなご職業をされたそうです。
しかし、残念なことに、そして申し訳ないことに、言葉がわからない子ども達は日本の学校で「いじめ」に遭遇されるのです。
周囲の子ども達にしてみたら、日本人と似ているけれど容貌が異なり、言葉が通じない異なる存在であり、排除したくなる相手だったのかもしれません。
難民の方々を受け入れるべきだという人道主義と、自分達とは異なる文化背景を持った人たちが隣に住むかもしれないことへの日常生活からの懸念、あるいは嫌悪感。このあたりの狭間で、EUの方々はどのような判断をされるか、それはとても難しいことだろうと、私は思います。
ただ、日本で経験された「いじめ」に対して、私が申し訳なさそうにすると、ご本人はこう言われました。「難民として逃げてきた当時のことから比べれば、そんなことは比較にならないようなこと、大したことではありませんでした」と。
5.暗い森から「未来」に続く道
カンボジア難民だったこのご兄弟は、お兄様が日本で建設会社に勤務された経験もあり、帰国後、建設会社をご家族で設立されます。そして、日系企業とのコミュニケーション力、日本企業文化への理解度を強みに、日系企業から工場建設を請け負っておられるのです。アセアン経済が一つになる見込みの中、人件費が比較的安いカンボジアは、タイ等からの二次進出国として賑わい、現在のお姿からは成功と裕福さが感じられます。実は弟さんは俳優かと見まがうようなイケメンなのです。
まさか、夜の森を走る中ではそのような未来が数十年後に待ち受けているとは、誰も想像できなかったことでしょう。明日のこと、いえ、この夜を生き延びること、それだけで精一杯でいらっしゃったはずです。
ただ、その逃亡を企画され実行されたお父様は、おそらく「家族全員を必ず生き延びさせる」という小さな希望の灯火、小さいけれど強い光の灯火を掲げておられたはずです。
もしも今、先の見えないトンネルの中で行き詰まるようなことがあったとしても、夜の森を抜けるような歩みを止めなければ、その先の未来はどこかへつながっている可能性がある。そう考えさせられた、彼らとの出会いでした。
アジアではそういう出会いが時々あります。カンボジア、ベトナム。いずれも難民が出られた国。
イギリスでは「君は会社の人生を生きてるんじゃないよ、自分の人生でしょう?」と言われ、「雪が降っているから」と会社を休む人もいる。カンボジアには夜の森を走って逃げた経営者がいる。ベトナムの街角では、お母さんたちが歩道の上で調理をしながら、子どもを育て店を守り、ラオスでは田舎から出てきた女の子達が工場で単純作業に従事している。
エジプトから米国にわたり、大学教授となられたエジプト人女性から、「あなたは私が仕事で初めて会った日本人女性だ」と励ましてもらったこともあります。とても訛りの強い英語でしたが、この英語で様々な相手と渡り合ってこられたのだなと感動しました。
働き女子の皆様、日本の狭い価値観の中で悩んでいるのが嫌になるようなダイナミックで、想像を絶するような、そして時にええ加減な世界。世界は広いのです、スマホの画面より。そんなふうに時々、自分を励ますmiyakoguです。