代取マザー、時々おとめ

宝塚の観劇感想メインのブログ。たまたま代取(代表取締役)になったワーキングマザーの日々と哲学。twitterは@miyakogu5。

月組・夢現無双 考察 珠城りょうさん武蔵の無骨な哀しみ、前へ進む宿命の人

皆さま、こんにちは。春うららかな今日、宝塚の桜も満開でした。新人公演を経てぐぐっとお芝居の明晰さが増したように思う月組・夢現無双を観劇してまいりました。珠城りょうさんの武蔵に感じた「無骨な哀しみ」と呼びたくなる何か。その点について本日は書きたいと思います。

以下はあくまで、私が舞台からどう受け止めたかを書いたものです。これが正解というような答え合わせではありません。また、以下には多くのネタバレがありますので、お嫌な方は読まないでくださいね。

 f:id:miyakogu:20190406211712j:plain

 

1.新人公演の風間柚乃さんの武蔵との比較において

一つ前の新人公演感想で書きましたとおり、風間柚乃さんが演じる宮本武蔵は、一見、普通の青年ですが瞬時に殺気が立ち上り俊敏に動く武蔵。どこか清澄な明るさが根底にあり、剣豪・宮本武蔵の成長物語として一本筋が通った清々しさがありました。また風間さんがご挨拶で話されたとおり、「芸の道」にも通じるものがあるとひきつけて演じられたためか、理解しやすい物語だったと思います。

一方、珠城りょうさんが演じる宮本武蔵は、無骨な武芸者の哀しみがより強く出た物語だと拝見しました。哀しいとき、武蔵が土をぐわっとつかみ大粒の涙を流し、風が吹きすさぶ中を武蔵が独りで歩いて行く風景が見えるような・・。

若き武蔵は同じく武芸者であった父と沢庵和尚への反抗心が強く、正論だとわかっていても意見を聴こうとしない頑な硬い殻があります。

そういう人間が、強くなりたい一心で、出会った人を師と仰ぐようになり、正反対のものを持った人と出会う中で成長していく。

珠城りょうさんの武蔵には、あくまで「剣の道」としての追求を感じました。「宝塚の舞台」という皮を一枚かぶせずに、齋藤先生は多くの男性俳優が表現しようとした「剣の道」の奥深く、独りで歩む武蔵像に真っ向勝負を挑もうとしている、珠城りょうさんにその道を敢えて歩かせようとしたのではないかと、そう感じたのです。その思いはパンフレットのご挨拶を改めて拝見し、一層強くなりました。齋藤先生の宮本武蔵への思い入れがこれほど強く長いものだとは、存じ上げませんでした。

 

2.武蔵の「体」の才能

皆さまは、思春期から20代にかけて、「自分は何になれるのだろう」とわくわくする一方で、「自分はどこまでやれるだろう?」とどうしようもない不安に駆られたことはないでしょうか?今、その真っ只中の方もおられることでしょう。

17歳で関が原の戦いに飛び出していった武蔵と又八は、能天気な根拠のない自信に満ち、「男たるもの、日の本一の天下無双を目指せ」と高らかに歌います。

しかし。才というのは残酷であからさまなものです。

宮本武蔵という人物は歴史に残る剣豪です。動体視力や筋力、跳躍力等を含めて大変優れた身体能力の持ち主だったはず。幼い頃より、師を持たずとも血筋からか剣が強く、関が原でも多くの敵陣を倒せた武蔵は、自分の持つ「才能の器」の大きさにはうすうす気づいていたはずです。

では、その才能の活かし方を適切に導いてくれる人が、回りにいたかというと「否」。父は優れた武芸者でしたが、父子の対立の中で父から得たものは少なく、残るのは厳しい言葉。沢庵和尚は、常に叱咤の言葉を謎解きのように投げかけては武蔵を放り出します。武蔵の心に灯る母からは「強くなくていい、優しい子になりなさい」と相矛盾する言葉を残されます。

若き時に、自分の才能の器の大きさがどれくらいかを見定めるのはとても難しいことです。実は、晩年にしかわからないものでしょう。ただ、自分の才能がどれくらいの大きさかという「可能性」は、ぼんやりとわかるものです。本人にも周囲にも。それは期待とともに、どう扱えばいいのかわからない怖さももたらすものだと、私は思います。

才能の器が大きそうだということは、一見素晴らしいことに見えます。けれど、たとえば同世代のアスリートの優れた人物のすべてがプロ選手や金メダリストにならないのと同様に、自分の器一杯に成果を満たすことができる人はごくごく一握りです。

武蔵は、自分が強いことはわかっていた。もっともっと強いはずだという自負もあった。でもその活かし方は、わからない。教えてくれる師もいない。

推定20代初めの彼はどうしていいか全くわからない。そういう闇の中にいたと思うのです。

武蔵の焦燥感、道を独りで行かざるを得ない寂しさには、暗闇で母を求めて泣く幼子のような心細さがあっただろうと私は思います。

その想いを共感できるのは、同じくらい大きな才能の器を持った人物です。武蔵が吉岡道場に行ったとき、清十郎ならわかりあえると思ったのではないかと思うのですね。同じだけの器を持った人物と見込み、会いに行く。けれど一撃で退けられ、吉野太夫に指摘されたとおり、その時点では同格の才能の持ち主だとはみなされていません。それはどれほど哀しく寂しいことであったでしょうか・・。

武蔵は恐らく、同世代の剣士の中で身体能力について誰よりも高いものがあったはず。ただ、「心技体」のうち、「心」も「技」も鍛え上げる機会を持たなかった。それが当初の彼の弱さであり、「体」のずば抜けた才を持ちつつ、どうやればこの虚ろな器を満たせるのか?!という絶望の中にいたと思います。

戦いの中で来る相手をやみくもに斬る。おそらく、それしか自分の才能への確かな手ごたえを実感できる場面はなかったと思うのです。

 

3.武蔵の「技」の成長

彼は作州を出奔した後、様々な剣豪に手合わせを申し込む中で、ゲームの駒を進めるように、「心技体」の「技」を磨いていきます。

そのプロセスにおいて、武蔵に大きなインパクトを与えたのは日観坊主と柳生石舟斎でした。彼らは武蔵とは違う強さを持ち、圧倒的です。

日観坊主「その強さ、もう少し緩めてもよかろうに」

柳生「我、流れる水のごとし」

きらめく火のように光のように剣を追求してきた武蔵は、その言葉を「えっ?」と受け止めます。油断を常に戒め、流されることを許さず、常にぴりぴりとした殺気を発することで自分の「心」の弱さを守ってきた武蔵にとって、彼らの言葉は真反対の教えだったでしょう。

この二人から、武蔵は「自在」ということを学んだと想像します。手放す、流される、そのことが逆に力になる。この教えを自分のものにできたとき、武蔵は一段、強くなったはずです。

私は、月組全国ツアー「激情」初日のホセを観て、珠城りょうさんの演技とポテンシャルに驚き、それ以来、注目してきました。(注 ま、ありていに言うと沼に落っこちたとも言いますね、ええ・・)

若きトップとして抜擢されて以降、珠城さんには、時にごく薄いのですが頑な殻を感じることがあります。もしも珠城りょうさんが武蔵と同じく手放すこと、流されること、これらを自在に出し入れできるようになられれば、これまでとは異なる種の力を手に入れられるのではないか?と期待を込めて思います。

武蔵とトップスターとしての珠城りょうさん。この武蔵の成長の物語は、齋藤先生による珠城りょうさんへのエールのようにも思えました。

 

 4.武蔵の「心」の成長

「心技体」のうち、体はもともと持っていた、技も身につけた。しかし、「心」が整わなければ一段強い、大きな相手には決して勝てない。そこに武蔵はたどりつけるのか?

そこで登場するのが、千海華蘭さんが天才的に演じておられる本阿弥光悦であり、こちらも海乃美月さんが妖艶に謎めいた雰囲気で見事に演じておられる吉野太夫です。彼らは分野は違いますが同じ高みで戦っている人たち。武蔵の才能に気づき見守り先導するかのような存在です。

吉野太夫「未練、初めての」

そう言われて初めて、吉岡一門70名数名を相手するにあたり、武蔵は自分が命を惜しんでいることに気づくのです。

それは「弱さ」です。しかし、武蔵が自分の器の中に本来持っていなかった「技」を取り込むことでしか強くなれなかったように、「情け」も「弱さ」も「恋」も、子どもの頃にお通をかばい伊吹山で朱美を守った「優しさ」も、戦いに不要な「弱さ」を取り込んだ上で尚、強くあることができない限り、心に弱い「点」ができてしまうのではないかと、私は思います。

弱い「点」があれば、敵はそこを衝くでしょう。武蔵が吉岡一門の企みの中で一番弱い「点」=吉岡側が子どもである壬生を大将にしたことを最初から衝き、真っ先に斬ったように。

それでは、ぎりぎりの闘いに勝てない。私は吉野太夫との謎かけのようなやり取りの中で、武蔵がつかんだ「心技体」の最後の「心」とは、自分の中にある弱さを認め、取り込み、誰かを大切に想う心を力にすること。その点ではなかったと考えています。

 

5.人を斬るということ

吉岡一門との死闘は伝説的な闘い。彼は一躍、名を上げます。

しかし、大将であるとは言え、子どもを斬り、斬らなくても良かった70もの命を奪ってしまったこと。それは「己の剣に酔いしれた愚挙」だと沢庵和尚に喝破され、一言も反論できないのです。

幻想の父の言葉に突き放されるように、再び独りで旅立つ武蔵は下総で剣を鍬に持ち替え、仏を彫る日々を送ります。斬ることで人生を途絶えさせたこれまでの相手を供養するかのように。

私は最初、多くの逸話を盛り込んだこの脚本で、宍戸梅軒との場面は本当にいるのだろうか?と思っていました。しかし、はたと気づいたのです。ずっと考えていた朝に。

真剣で闘うということは、相手を斬り、時に殺めるということです。無敵の宮本武蔵は闘いに勝ちます。天下無双、素晴らしい。

けれど、闘いに勝つことで、武蔵は相手の人生をその時点で止めてしまっています。この世への未練も、想う相手との幸せも、家族との時間も。

武蔵は斬った相手が生きるはずだった人生を、斬った時点で引き受ける宿命にあるのか、と気づいたのです。そのように考えると、宮本武蔵の物語は、胸がすくような天晴れな剣豪活劇の側面だけではない。そう思うのです。

宍戸梅軒は武蔵に斬られた兄の敵を討つ存在として登場します。それまで、原作はともかく、宝塚のこの脚本で武蔵に命を奪われた関係者が登場するのは初めてです。彼を斬ることで、武蔵は兄弟の人生を二重に引き受けることになります。

仏を彫るようになった武蔵は、佐々木小次郎との闘いの後、倒れている小次郎に向かって初めて手を合わせます。

武蔵はついに天下無双の称号を得た。けれど、この虚しい思いは何なのか?武蔵はそれは修行が足りないからだと思い、再び、独りで歩いていきます。

旅に出る、強い誰かを斬る、無双になる、そして再び虚しくなる・・。私には武蔵の己との闘いは「体」が衰えない限り、終わりのない旅に見えました。

自分よりも強い誰かが現れるのを待ち、その誰かによって斬られるか、病か、結局のところ、己の死によってしか終わりがない宿命の旅路。斬った相手の人生を引き受けた以上、とどまることを許されないような・・。それが、強き者の宿命なのかもしれないと思います。

考えてみると、誰かに勝つ、何かに抜擢されるということは、常にそういう側面があります。

抜擢される人がいる一方で、夢を断たれる人もいる。宝塚で言えば、朝夏まなとさんが新人公演主演に選ばれた下級生にかけられたという「私なんかでいいのだろか」という思いは、選ばれなかった他の人に対して失礼だという趣旨の言葉。選ばれた人は、その人たちの想いを引き受け、その上ですくっと立ち、前に進むしかないのだと思います。

その道を今、武蔵は歩き続けるしかない。最後の場面は、明るくさっぱりとした旅立ちのように見えて、再び厳しい道の始まりでもあります。

ただ、今日拝見した珠城りょうさんの武蔵は以前と違って、無骨な哀しみが和らいだようでした。お通への想いが胸にあるということは、どれほど彼を暖かくし強くしているか、そこがストレートに伝わってきました。武蔵は宿命の道を歩き続ける、けれど離れていても想う人がいることで救われた面もあるのだと。

 

新人公演を観た後、私の思考の旅路も思いがけず、随分遠くまで来てしまいました。その思考をもたらしてくれたのは、素晴らしい新人公演を見せてくださった月組下級生の皆さまです。若いってすごいね。おばちゃんな、感動してんよ。ありがとうね!

この記事には不完全燃焼感がまだあります。齋藤先生の長く深い思い入れが散りばめられた本作品。東宝千秋楽では名作になっているかもしれないという期待を込めて、本日はここまで終わるものなり。まぁ、なぜここまで真剣に考えているのか、謎ではあります。とりあえず、本日は解散なり!(^^)