代取マザー、時々おとめ

宝塚の観劇感想メインのブログ。たまたま代取(代表取締役)になったワーキングマザーの日々と哲学。twitterは@miyakogu5。

宙組・異人たちのルネサンスLV 感想と考察 「異人」の意味と真風さんの中の少女

皆さま、こんばんは。年の瀬、いかがお過ごしですか?私は一昨日は忘年会で大阪、今日は娘を連れて雪の舞う実家です。温度差およそ4度、振り幅もおっきい日々です。

こちらは忘年会の会場、ミライザ大阪の建物の館内。旧陸軍の建物がリニューアルされて今ではレストランやカフェの複合施設となっています。メディチ家じゃないよ(^^)。機会があればぜひどうぞ!

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さて、一昨日の夜、梅田に出かけ「白鷺の城/異人たちのルネサンス」ブルーレイを購入。年末年始のお楽しみにと思っていたのですが、実家はDVDのみの再生プレイヤーと発覚、しょんぼりです・・(T-T)。

しかーーーし!そんなくらいでへこたれるmiyakoguではないのですだ!大阪のおばちゃんやから!書くから!そのためにLV、お芝居から駆けつけたから!

ばんばんばん!(注 実家のコタツ机を叩く)

※その後、ヅカファン母子の落ち込みを哀れんだ近所の姉一家よりブルーレイ・レコーダーが貸与されることになりました(^^)。

1.「異人」の意味

パンフレットの田渕大輔先生のご挨拶にありますとおり、このお芝居はレオナルド・ダ・ヴィンチと宙組トップスター・真風涼帆さんが「常人には知り得ない苦悩に輝いていることを田渕先生が描き出そうとされた作品です。真風さんと入団同期だという先生にとって、特別な意味がある「異人」だったのだと今回LVを観て把握しました。

パンフレトットの文字ミスではありません。「苦悩に輝いている」トップスター。苦しんでいるだけではなく、苦悩に輝いているのです。

レオナルドとしての真風さんはもう一度、自分の心の人にしたいというカテリーナへの苦悩と、天才として自分の限界を超えたいという苦悩と、その二つの苦悩の中でもがき輝いたと、そう見えました。

冒頭、グイド司教はレオナルドの描いた肖像画を教皇に贈ります。彼は最後、倒れる時に「解き放て」と言い残します。私はこのお芝居において、グイド司教は最初からレオナルドの才能を誰よりも理解し、彼の才能が彼自身を超えていくのを待っていたようにも思えました。カゴに閉じ込められた鳥とはカテリーナでもあり、自身の才能と戦うレオナルドでもあるように思えたのです。

レオナルドとしてのお芝居での苦悩と輝きに加えて、宙組トップスターとしての真風さんもまた「異人」だととらえた田渕先生のパンフレットの言葉。

路線、御曹司という言葉には、抜擢を良いことととらえる面があります。ただ、その期待に応え続けること、自分の弱点をさらけ出してなお舞台に立ち続け、いつしか成長した姿を当たり前のように見せること。

その裏には、当然ながら常人には計り知れない苦悩と努力がある。田渕先生は入団同期として真風さんの姿をずっとそばで見てこられたのだろうと思います。

「常ではない苦悩を乗り越えて、輝く人」。それこそが、このお芝居のタイトル「常なる人とは異なる人=異人」に込められた意味であり、入団同期の真風さんに贈られた田渕先生なりのエールだったのではないかと思います。

ありがとうございます・・・(涙)。

 

2.二人きりの客間の緊迫感

宝塚大劇場で観劇したとき、私はこのお芝居は美しい言葉が随所にみられる「詩」のようだと思いました。余白が多く、その詩情が美しく奏でられた日は秋の夕暮れのような透明な哀しみが伝わる美しい佳作に思える。けれど、詩情がきらめかなかった日には、人数が少なく静かで照明が暗めの場面が続き、正直眠くなる・・。

田渕先生の前作「王妃の館」と比べるとトップコンビ以外のメンバーの出番が少なく、その点で不満をお持ちだったファンも当然おられたでしょう。ただ、東京に行ってからは、皆さまのtweetを拝見していると詩情がきらめく日がどんどん増えていったように思えたのですね。

今回、LVでトップコンビのお芝居を拝見してその確信を得た場面が2つあります。

1つめはレオナルドがカテリーナをモデルに絵を描くと言いつつ、二人きりで話をしたかっただろうと思わせる場面です。LVで真風さんの手元から、おそらくは構図を決めるために直線を引く音が「シャッ。シャッ」と鋭く響く場面。ここの緊迫感が素晴らしかった!LVにおいて、私は固唾を呑んで見守りました。

言葉少ない場面です。けれど、レオナルドの苦悩、焼け付くような嫉妬、カテリーナの心を自分に向けてほしいというまっすぐな恋と欲情。それらが押し黙った真風さんの全身からカテリーナに向かって次々と矢が放たれるように、はっきりと見えるように感じられたのですね。

寂しかった子ども時代、お互いにとって唯一の暖かな存在であった二人の間に放たれた矢のような鋭く熱く想い。カテリーナにとってはおびえでもあったでしょう。それはレオナルドの手を取ってしまいそうな悦びへのおびえでもあったと私は思います。そのしぃんと静かな緊迫した場面は、梅芸・WSSでの真風さんと星風まどかちゃんの二人の演技を思い出させました。

そして2つめの場面、工房の親方・松風輝さんとのお芝居も見事でした。親方に声をかけられ、右後ろを一瞬振り返り右手で涙をすっとぬぐうようだったあのお芝居。その一瞬のやり取りからは、親方とレオナルドがこれまでの暖かな関係性がぐっと感じられ泣けました。松風さんのお芝居は心を揺り動かすものがあります。

 

3.男役の完成と真風さんの中の少女

このフィナーレでは黒まか、白まか、青まかが登場するわけです。白まか=デュエダンのプリンスとチャーミングな星風まどかさんとの間で日々高まっていく幸福感。ご利益がありそうなデュエダンでした(^^)。

ばん!!!ありがたやーーー。(注 拝むmiyakogu)←落ち着いて、miyakoguさん?

デュエダンが始まると、並んで翼を広げるように、軽やかに雲の上を飛ぶようにダンスをして、楽しそうに真風さんが斜め下を見下ろして、まどかちゃんが嬉しそうに見上げる。幸せを劇場の最後列まで確実に届け、LVの映像でも小花がきらきらと舞うように見えた幸せなデュエダンでした。素晴らしかった!

ただ、私はその時に考えたのです。なぜ、この二人のデュエダンには、このような多幸感があるのだろう?

少し前に、私は真風さんは何かをピュアに夢見るように見上げているように思うと書きました。

千秋楽のデュエダンを通じて私が感じたのは、「真風さんの中の少女」の解放です。

愛、幸せ、清らかさといった宝塚歌劇団のデュエダンにしかない“善きもの”への憧れ。

真風さんは、ご自身の中に夢見るように大切にその憧れをお持ちだからこそ、その表現ができるのではないか?と。

真風さんは男役さんとして、初見の方がほぼほぼ男性に見間違えほど長身で骨を感じさせるシャープな容姿をお持ちです。一方、私たちファンは、割烹着を着た真風さんのたおやかな母性や、両手をかわいらしく胸の前でぺちぺちと叩く姿や、出待ちのお写真で羽を持ってきゃっとされている姿も見知っています。

それなのに、舞台に出るときりっと堂々と立ち、背負った羽根を豪快に揺らし舞台上を歩かれます。

今作品、真風さんの中にある夢見るような憧れが真風さんの全身からあふれて、観ている側の心にその繊細な震えが直に伝わってきたように思えたお芝居。拝見していて、真風さんはご自身が納得できる男役のスタイルにたどり着かれたのではないかと思いました。

男役として「これが私です」と自信を持ち、男役としての輪郭がはっきりした今こそ、真風さんの中にある少女は解放されたのではないかと。

もちろん、私のいつもの勝手な推察です。けれど、今作品のお芝居とデュエダンにおいて、真風さんの全身から感じられた「宝塚の善きことへのピュアな憧れと夢」には、真風さんの心の奥から出たものだと思わせる強さがありました。

男役トップスターの中にある少女の憧れ。私はそれは、宝塚歌劇団特有の重要な魅力の一つだと思います。

お二人のデュエダンからは少女の含羞すら感じました。人生においてそのような「善きもの」に私達が出会ったとき、駆け寄って抱きしめたくなるような”はにかみ”。美しくうっとりと清らかに爽やかに甘い。

そんな魅力をトップコンビがデュエダンで見せてくれるのだとしたら・・・。


ばん!!!(注 立ち上がるmiyakogu。今日はコタツ)

そんなもん!観に行くやんか、博多座までーーー!!(withエコー) ←落ち着いて、miyakoguさん?

博多座「黒い瞳」の後、次は宝塚大劇場「オーシャンズ11」で大人のダニーを見せてくれるだろう真風さん。おそらく、憎らしい程の大人の男と粋さとかっこよさを見せてくれるでしょう。でもその合間に、真剣に恋をする大人の男の可愛さやいじらしさがきらめくように見えるのであれば?

そんなん、萌えるやーーーーん?!(withエコー)

 

個人年賀状も出した(大掃除はスルーで)、実家のおせちも買ってきた(ちょっとはつくる)、これで私の年の瀬は終わりました!

皆さま、今年一年、ブログとtwitterも含めていいねやコメントをお寄せいただき、ありがとうございました。このブログを通じて、私が何か一つでも宝塚歌劇団と人生の「善きこと」を皆さまにお伝えできていたら嬉しく思います(^^)。

来年もどうぞよろしく!おばちゃんも、がんばるわね(^^)。